ローソンが2026年9月22日から始める新チャレンジは、「一点突破すぎ」と「贅沢すぎ」である。具材を一点に集中させた弁当と、肉づくし・海鮮づくし・和栗モンブランといった高単価商品を同じ時期に並べる。価格もはっきり分かれる。297円〜の一点突破側と、797円〜の贅沢側だ。
注目が集まる理由は、商品そのものよりネーミングにある。この二つの言葉は、いまの消費の2極化を店頭に置きながら、それをそのまま「貧富の差」とは呼ばない。
「贅沢」の反対語を、棚には出していない
片方を「贅沢すぎ」と呼ぶなら、反対側は本来「質素すぎ」や「倹約すぎ」になりやすい。だが、その言葉は使われていない。
「質素すぎ弁当」と棚に並ぶと、297円のぼだっこ弁当を手に取ることが、節約している側だとすぐ分かってしまう。コンビニの季節キャンペーンとして、そこまで直接的な対比は出しにくい。代わりに使われたフレーズが「一点突破」だ。攻めているように聞こえる。少ない具材を、足りないものではなく、一点に集中したものとして見せる。
一点突破は、限られたものを一点に集める、という言い方だ。材料が少ない事実は消えない。消えるのは、「少ない」と正面から言う言い方だけである。安い弁当を「安い」と呼ばず、「尖っている」と呼ぶ。注目されるのは、この言い換えの巧みさだ。
『ハケンの品格』と同じ物語
この構造は、ドラマ『ハケンの品格』がやったことと似ている。派遣労働を不安定な働き方のまま置かず、「自ら選んだ働き方」として物語化する。正社員より自由で、誇りがあり、プロフェッショナルである、というストーリーを足す。現実の格差は消えない。消えるのは、格差を格差と呼ぶことへの抵抗感だけだ。
「一点突破すぎ」も同じだ。具材が少ない弁当を、貧しい側の食事と呼ばない。一点を極めたチャレンジと呼ぶ。客は「節約している」のではなく、「尖ったものを選んでいる」ことになる。物語が先に立つと、高い弁当と安い弁当は上下ではなく、好みの違いに見える。
同じ棚に297円と797円を置いても、客同士が気まずい空気を作りにくい。安いほうを取る人は「一点突破派」、高いほうを取る人は「贅沢派」。どちらもチャレンジしていることになり、見比べたときの居心地が良くなる。居心地が良くなるのは見え方だけで、値段そのものは変わらない。
店頭に並ぶのは、二つの昼飯であり、二つの日本だ
第1週のラインナップは分かりやすい。てりやきソーセージを敷き詰めたご飯、秋田の塩鮭「ぼだっこ」。対する贅沢側は、肉づくし冷し中華、海鮮づくし上海風焼そば、和栗のお重モンブラン、ベルギーチョコのコロネ、肉オールスター弁当。第2週も同じ構図で、焼とうもろこし、激辛キーマカレーに対して、濃厚豚ラーメン、ペスカトーレ、パイシュー、ラムレーズンサンドが来る。
一方は具材を減らして視線を一点に集める。他方は具材を重ねて「づくし」にする。同じチェーン、同じ週、同じ「チャレンジ」という言葉の下で、二つの食事が出る。中間がないことも目立つ。500円前後で「普通においしい、普通に足りる」弁当を、今回の主役にしていない。尖るか、盛るか。かつての「普通の昼飯」をアピールしていない。
公式はXで引用キャンペーンも用意した。キーワードは「ローソン一点突破すぎ贅沢すぎ」。二つの言葉を繋げて一つのハッシュタグにする。対立に見せず、同じ祭の両端として出す。
高い安いの選択が「どっちを選ぶか」に変わる
「一点突破すぎ」は悪くない言葉だ。写真映えし、自虐にもならない。だからこそ注目され、だからこそ分かりにくい。キャッチーな言葉で、297円と797円の差は「余裕があるかないか」ではなく、「どっちの味を取りに行くか」に見える。安いほうを取ることはセンスになり、高いほうを取ることはご褒美になる。どちらも「すぎ」で揃えれば、両端が同じキャンペーンの参加者に見える。
だが、成立条件は同じではない。一点突破側は、具材を足しにくい前提で作られている。贅沢側は、具材を重ねられる前提で作られている。制約を「尖り」に変えるのは、企業の常套手段だ。それを客が自分の好みとして受け取ったとき、物語は完成する。派遣を自ら選んだ、一点突破を自ら選んだ。選ばざるを得ない側が、選んでいる側の顔をする。
ローソンのキャンペーン自体を責める必要はない。売れるものを売り、言葉を整えるのは企業の仕事だ。見るべきなのは、その言葉が必要になった社会のほうである。質素と言えず、倹約とも言えず、一点突破と言わなければ棚に並べにくい。その時点で、2極化はすでに十分進んでいる。
祭のあとにも、297円と797円は残る。残るのは価格であり、薄れるのはそれを格差と呼ぶための言葉のほうだ。注目が集まっているのは、弁当の新しさだけではない。高い安いを、高い安いのまま言わずに済む日本語が、また一つ増えたのだ。


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