高市首相が本当に「戦争の惨禍を二度と起こさない」と誓うのであれば、はっきりこう言うべきだった――「我々は、戦争の惨禍を二度と繰り返さない。そして、繰り返させない」

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2026年8月15日、全国戦没者追悼式。高市早苗首相は式辞でこう述べた。「戦争の惨禍を、二度と繰り返させない」この一文は、一見すると平和への誓いのように聞こえる。

しかし、ここには決定的な言葉の「ずれ」がある。歴代首相の多くが用いてきた「繰り返さない」ではなく、「繰り返させない」だ。たった一文字の「せ」が加わっただけで、主体性が曖昧になる。そしてその曖昧さこそが、高市政権の本質を露呈している。

「繰り返さない」と「繰り返させない」は、まったく別の誓いである

日本語の文法は明確だ。「繰り返さない」は、主体が自らやらないという能動的な決意だ。 「我々日本は、再び戦争の惨禍を起こさない」という宣言である。「繰り返させない」は、誰かが繰り返すのを阻止するという使役形だ。 主語がぼやけ、「誰が」「誰に対して」阻止するのかが不明確になる。

朝日新聞の取材に応じた中央大学の中北浩爾教授(日本政治史)は、この違いについて次のように解説している。「繰り返さない」は、自ら戦争を起こした日本が不戦の決意を述べていると読める一方、「繰り返させない」は相手国が戦争を引き起こしたように読める可能性がある、という指摘だ。すなわち、先の大戦を「日本が主体的に起こした侵略戦争」ではなく「やむなく応じた自衛戦争」と捉え直すニュアンスが、自然に滲み出るというわけだ。

さらに中北教授は、この表現が「抑止のために防衛力を積極的に高めていく」というメッセージにも転化しうると指摘する。「繰り返させない」とは、結局のところ「相手に繰り返させないための力を持つ」という論理に直結しやすい、との見立てだ。

憲法前文は明確にこう記している。「日本国民は、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」。主語は「日本国民」であり、政府に戦争を「させない」のではなく、自らが「起こさない」決意だ。首相がこの場で「繰り返させない」と語るのは、憲法が求める主体性を、言葉の上でこっそりすり替える行為に等しい。

「反省」も「不戦の誓い」も消した、意図的な後退

石破茂前首相は2025年の式辞で、13年ぶりに「戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばなりません」と述べ、「戦争の惨禍を決して繰り返さない」と明言した。

高市首相はこれを完全に封印した。「反省」も「不戦に対する誓い」も、「歴史の教訓を胸に刻む」という表現も消えた。代わりに出てきたのが「インド太平洋の輝く灯台として、頼りにされる国になれます」という、自身の施政方針演説からの流用である。

安倍晋三元首相以来の「反省なし」路線への回帰だと擁護する声もあるだろう。しかし安倍氏ですら「繰り返さない」という表現は残していた。高市首相はそこからさらに一歩踏み込み、「せ」を加えて主体を曖昧にした。これは単なる「回帰」ではない。より積極的な言葉の操作である。

追悼式は戦没者の御霊と遺族に向き合う場だ。そこで「誰が主体となって繰り返さないのか」をぼかす行為は、戦没者への敬意を欠く。言葉を微妙にずらすことで「不戦」の意味を骨抜きにし、防衛力強化や集団的自衛権の拡大を「繰り返させないための当然の措置」として正当化する地ならしをしているとしか思えない。

なぜ敢えて「させない」だけを選ぶのか

反論として「『繰り返させない』には『繰り返さない』も含まれる」と言う人がいるかもしれない。ならば、はっきり「繰り返さないし、繰り返させない」と言えばいい。なぜ敢えて「させない」だけを選ぶのか。含まれるなら、わざわざ主体をぼかす必要はない。ぼかすこと自体が、意図の証拠だ。

また「抑止力を高めるための表現だ」と正当化する向きもあるだろう。しかし抑止力の強化を語るなら、追悼式の場ではなく、国会や防衛白書で堂々と語ればよい。戦没者の前で、言葉のニュアンスをずらして戦争気運を静かに醸成する手法こそが、最も危険である。歴史は、こうした「微妙な言葉の操作」から本格的な軍事化が始まった例を数多く知っている。

高市政権は発足以来、防衛費のさらなる増額、武器輸出拡大、スパイ防止法制定など、タカ派色の強い政策を明確に進めている。その延長線上に、この一文字の追加がある。

「繰り返させない」という表現は、平和の誓いを装いながら、実際には「力によって相手に繰り返させない」という論理を国民に植え付けるための、巧妙な言葉の罠である。

この解釈に異論はあるだろうが、事実関係は無視できない

この指摘に対し、「繰り返させない」で何ら問題ない、むしろ抑止力への決意として適切だと受け止める向きもあるだろう。揚げ足取りだという批判も予想される。しかし、文法上の主語の違い、憲法前文の文言、歴代首相の式辞比較という事実そのものは動かない。この違いをどう評価するかは読者の判断に委ねたいが、少なくとも「単なる言い換えに過ぎない」として片付けるのは、事実を軽視した議論の逸らし方だろう。

曖昧さを許すな

言葉は政治の道具だ。「繰り返させない」と「繰り返さない」の違いは、単なるニュアンスではない。主体性の放棄であり、責任の曖昧化であり、戦争への心理的ハードルを下げる第一歩ではないか。

高市首相が本当に「戦争の惨禍を二度と起こさない」と誓うのであれば、はっきりこう言うべきだった。「我々は、戦争の惨禍を二度と繰り返さない。そして、繰り返させない」

それができなかった理由を、国民は冷静に見つめる必要がある。言葉をずらして戦争気運を高めていく手法は、民主主義国家の首相が取るべき態度ではない。この一文字の追加を、決して見過ごしてはならない。

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