私たちが信じている「改憲論争」の正体
憲法改正という言葉を聞いたとき、多くの国民は「改憲派(右派)対 護憲派(左派)」という、使い古されたイデオロギーの対立図式を思い浮かべるだろう。しかし、その不毛な衝突の陰で、全く別の次元の戦いが進行しているとしたらどうだろうか。
実は、この論争の真の対立軸は「思想の左右」などではなく、「政治家・国民 対 官僚」という、統治構造にある。インテリジェンスの世界に通じ、日本の国防政策における第一人者である苫米地英人氏は、現在の自民党改憲草案には官僚組織が巧妙に仕掛けた「罠」が密かに忍び込ませてあると述べている。
この記事では、苫米地氏の著書『憲法改正に仕掛けられた4つのワナ』が解き明かす、官僚による統治権限拡大の企てのうち、高市早苗政権が進めようとしている自衛隊の明記について触れたい。私たちが守るべきは「条文」ではなく、私たちの「自由」そのものであるはずだ。
争点は「名称」ではなく「文民統制」の崩壊にある
自民党の改憲草案には、「内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍(または自衛隊)を保持する」という趣旨の表現が盛り込まれている。世論の関心は「国防軍」と呼ぶべきか「自衛隊」のままかという名称の問題に誘導されているが、これこそが官僚の仕掛けた目くらましである。名称など、彼らにとっては些末な問題に過ぎない。
真に注視すべきは、「内閣総理大臣を最高指揮官とする」という文言が憲法に直接書き込まれることの危うさだ。
「内閣総理大臣を最高指揮官とする」という文言が、シビリアン・コントロール(文民統制)の逸脱を招き、戦前の軍国主義への道を開くリスクがある。
本来、文民統制は内閣や国会という複数のフィルターを通じて機能するものだ。しかし、これが憲法上の明文規定として「総理による直接の最高指揮権」へと書き換えられれば、従来の抑制機能は変質し、実質的な軍事組織が官僚機構の意思のもとに暴走しかねない法的土壌が完成してしまう。
「保持する」という二文字に隠された強制力
さらに深刻な罠は、「保持する」という、一見すると当たり前に思える二文字に隠されている。ここで起きるのは、「立憲主義」の根本的な破壊、すなわち憲法の役割が180度反転するという衝撃的な事態である。
本来、憲法とは「国家に××をさせてはならない」と命じ、権力を縛ることで国民の自由を守るものだ(受動的な制限)。しかし、憲法に「保持する」と明記された瞬間、国家には自衛隊を維持・継続しなければならないという「能動的な義務」が生じる。
この論理の逆転が、国民や隊員を縛る強力な足かせへと変質する。
• 憲法が国家を縛る盾から、国民を動員する矛へと変わる。
• 「保持の義務」を遂行するためという名目で、有事の際に自衛隊員の辞職を禁じることが法的に正当化される。
個人の「職業選択の自由」や「辞職の権利」よりも、国家の「保持の義務」が上位に置かれる。この憲法学的な大逆転こそが、官僚が草案に忍ばせた真の狙いなのだ。
徴兵制と無制限の防衛予算
「保持する」という義務がもたらす帰結は、単なる組織の維持に留まらない。それは、国民の生活と財産を根底から揺るがす「白紙委任状」を官僚に与えることと同義である。
苫米地氏は、この論理の行き着く先を次のように鋭く突いている。 「自衛隊を保持すると明記すれば、保持に必要な人員確保に徴兵制も可能になってしまう」
もし国家に「保持」の義務があるならば、人員が不足した際に「憲法上の義務を果たすために徴兵はやむを得ない」という解釈が容易に成立する。ボランティア(志願制)で足りなければ、憲法を根拠に国民を強制的に動員する道が開かれるのだ。同様に、組織を「保持」するために必要だと官僚が主張すれば、防衛予算は青天井に膨れ上がり、無制限の予算編成が可能になるだろう。
これこそが、国民の愛国心や防衛意識を逆手に取り、官僚が将来にわたって人員と予算という最大の権益を確保するために仕掛けた、巧妙な「法的トラップ」の正体である。
そもそも憲法9条を変える必要があるのか?
私たちは今、立憲主義の原点に立ち返る必要がある。憲法は、国家の暴走を食い止めるための「鎖」である。
苫米地氏の結論は明快だ。実体として国民の圧倒的な支持を得て自衛隊が存在している以上、あえて憲法に明記する必要などない。明記することによる「承認」のメリットよりも、国家に「保持の義務」という全能に近い権限を与えてしまうデメリットの方が、比較にならないほど巨大だからだ。
JMAXNEWSの視点であるが、改憲草案を執筆しているのは官僚であり、高市早苗氏のような有力な政治家ですら、その精緻な文言の裏にある真の意図に気づかず、騙されている可能性がある
政治家が信念を持って掲げる「国防」の看板の裏で、官僚組織は自らの権限を絶対化するための「細則」を巧妙に滑り込ませている。憲法改正議論の本質は、国防の是非という側面のほか、官僚による国家の私物化を許すか否かの戦いなのである。
私たちが注視すべき「言葉の裏側」
憲法が権力を縛る役割を捨て、国民を縛り、動員し、国家の義務の下に屈服させるための武器へと作り替えられようとしている。
その条文が一度確定したとき、もはや私たちの自由も、憲法の名の元に剥奪されることになるだろう。
そのとき、あなたは、そしてこの国は、一体誰のものになっているだろうか。

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