東京大学大学院教授鈴木宣弘氏は、日本の食料安全保障を強化するための農業政策を提言している。中心となるのは、2024年5月に改正された「食料・農業・農村基本法」を踏まえ、水田政策の抜本的見直しを背景とした議論。特に、農林中金総合研究所の蔦谷栄一氏が提唱する「流域自給圏」の概念は、都市部(特に首都圏)と生産地が河川などの流域を通じて連携し、消費者が援農や継続購入で生産者を支える仕組み。この「流域自給圏」や「半農半X」といった取り組みが、食料自給率の向上だけでなく、洪水防止や景観保全など多岐にわたるメリット(一石五鳥)をもたらすと主張し、政府による迅速な実行を促している。最終的に、農業は「食料安全保障」という点で日本の国防そのものであるという強いメッセージが示されている。

目前に迫る食料危機と新たな処方箋
2024年に端を発した「令和のコメ騒動」は、わずか1年でコメ価格が6割以上も暴騰するという異常事態を招き、多くの国民に食料安全保障の脆弱性を痛感させた。これは単なる一時的な市場の混乱ではない。日本の食料供給システムが抱える構造的課題が、ついに現実の脅威として私たちの食卓に迫ってきたことの証左である。
鈴木教授が近著「もうコメは食えなくなるのか」で訴えているとおり、「食料は国防」である。この言葉を、戦争に備えた兵站確保といった「勇ましい議論」と捉えるべきではない。本質は、世界的な食料危機が発生した際に、四方を海に囲まれた島国である日本が、他国からの融通を絶たれ、国家の存立基盤そのものが揺らぎかねないという、極めて現実的な脆弱性にある。この国難ともいえる状況を乗り切るためには、食料安全保障の確立が最重要課題となる。
こうした危機感を背景に、政府は25年ぶりに「農政の憲法」とも呼ばれる「食料・農業・農村基本法」を改正し、2027年度からの水田政策の抜本的見直しに着手した。本稿は、この歴史的な転換期において、日本の食の未来を切り拓くための、具体的かつ未来志向の解決策を探るものである。
首都圏の脆弱性、食料自給率ゼロが示す構造的課題
日本の食料供給システムを分析する上で、首都圏の存在は極めて特異かつ戦略的に重要である。日本の人口の約3割が集中するこの巨大都市圏は、食料供給網のハブであると同時に、その供給を他地域に全面的に依存するという構造的なアキレス腱を抱えている。
この脆弱性は、具体的なデータによってより鮮明になる。
• 首都圏への極端な人口集中: 東京都(1417万8000人)、埼玉県(733万2000人)、神奈川県(922万5000人)、千葉県(625万1000人)を合計した1都3県の人口は、日本の総人口の実に3割を占めている。
• 東京の食料自給率: この巨大な人口を抱える一方で、東京の食料自給率は「限りなく0パーセントに近い」。特に、日本人の主食であるコメに至っては、その消費を完全に他の道府県の生産に依存している。
この主食の完全な外部依存状態は、我が国の食料安全保障アーキテクチャにおける、致命的な単一障害点(シングルポイント・オブ・フェイラー)に他ならない。平時においては効率的に見えるこの分業体制も、有事の際には即座に麻痺する可能性を内包しており、現状維持は持続可能な選択肢とは到底言えない。
この構造的な課題は、もはや従来の政策の延長線上では解決できない。食料の生産地と消費地の関係性を根本から見直す、大胆な発想の転換が求められているのである。
未来への提言:「流域自給圏」構想の全貌
従来の農業政策が直面する限界に対し、農的社会デザイン研究所代表の蔦谷栄一氏が提唱する「地域自給圏」「流域自給圏」という構想は、地域の連携モデルを再定義する画期的な提案である。これは、行政区画という人為的な線引きではなく、「流域」という自然の摂理に基づいた単位で、食料の生産と消費を有機的に結びつけようとする試みだ。
この構想の核心は、以下の蔦谷栄一氏の言葉に集約されている。
東京湾に注ぎ込む隅田川(荒川)、中川、江戸川等の大きな河川があり、これら川の上流とつながっての流域自給圏づくりとして展開していく。下流と上流との行き来を増やし、下流の住民は米生産農家とつながって継続購入を確保するとともに、援農により田植えや稲刈りにも参加していく。消費者と生産者が提携して米等の持続的な購入を可能にしていくだけでなく、援農によって上流の生産をも支えていく、という構想である。
「一石五鳥」の価値:食料生産を超えた多面的機能
「流域自給圏」構想は、食料安全保障の強化という単一の目的を達成するためだけの政策ではない。それは、社会や環境が抱える複数の課題に同時に応える、統合的な解決策としての側面を持つ。まさに「一石二鳥どころではない。一石三鳥、四鳥、五鳥にもなる」多面的な価値を内包しているのだ。
防災・減災機能の強化
この構想の推進、特に水田の保全は、農林水産省が進める「流域治水」の強化と直接連携する。近年頻発する線状降水帯によるゲリラ豪雨の際、広大な水田は「雨水のプールがわり」として機能し、一時的に雨水を貯留する。これにより、河川への急激な流入を抑制し、都市部での洪水リスクを軽減する。つまり、水田を生きた状態で保つことは、コメの自給率向上と防災・減災という二重のリスクヘッジとなるのである。
国土・環境保全機能
水田や農地が持つ公益的な機能は、防災だけに留まらない。この構想は、以下の多岐にわたる国土・環境保全機能の維持・向上にも貢献する。
1. 土砂崩れを防ぐ
2. 土の流出を防ぐ
3. 洪水を防ぐ
4. 森林の保全とともに、美しい地下水を作る
5. 川の流れを安定させる
6. 農村の景観を保全する
7. 暑さを和らげる
8. 生き物を育み、体験学習の場を提供する
9. 文化を継承する
これらの多岐にわたる戦略的共益(コベネフィット)は、「流域自給圏」構想が単なる農業政策の枠を超え、防災、環境保全、そして国土の持続可能性を統合した、包括的な国家国土経営戦略であることを明確に示している。これにより、同構想への投資は極めて効率的かつ影響力の大きいものとなるのだ。そして、この壮大なビジョンを駆動する根源的なエネルギーは、すでに市民社会の内部で力強く芽生え始めている。
希望の萌芽:未来を創る草の根の挑戦
これらの多岐にわたる戦略的共益(コベネフィット)は、「流域自給圏」構想が単なる農業政策の枠を超え、防災、環境保全、そして国土の持続可能性を統合した、包括的な国家国土経営戦略であることを明確に示している。これにより、同構想への投資は極めて効率的かつ影響力の大きいものとなるのだ。そして、この壮大なビジョンを駆動する根源的なエネルギーは、すでに市民社会の内部で力強く芽生え始めている。
国の「無策」が農村の疲弊を加速させる中にあっても、壮大な政策構想を実現するための不可欠な原動力は、市民や地域コミュニティによる自発的な活動から生まれている。それは政策の失敗に対する、必要に迫られた、そして希望に満ちた応答でもある。耕作放棄地の増加を食い止め、農業と農村を守ろうとする草の根の挑戦が、今まさに各地で始まっているのだ。
半農半X
農業と他の仕事を両立させる「半農半X」というライフスタイルが広がりを見せている。これは、専業農家という高いハードルを下げ、多様なスキルを持つ人々が柔軟に農業に関わる道を拓く戦略的なモデルだ。新たな担い手を確保するだけでなく、個人のスキルセットを地域に還元し、農業だけに依存しない、より強靭で多角的な農村経済を構築する上で重要な意味を持つ。
ローカル自給圏
農業ジャーナリストの小谷あゆみ氏が提唱するこの考え方は、地域の種を守り、生産から消費までを地域内で循環させる「運命共同体」を築こうとする動きである。「運命共同体」とは、単なる地産地消を超え、地域内の経済とコミュニティを再構築し、外部からの供給ショックに対するレジリエンス(回復力)を高めることを意味する。これは、より大きな「流域自給圏」構想の縮図(ミクロコズム)とも言える、強靭なモデルだ。
「飢えるか、植えるか」運動
佐伯康人氏が提唱するこの運動は、より直接的な行動を促す。「農家と市民が一体化し、耕作放棄地はみんなで分担して耕そう」という呼びかけは、受動的な「消費者」という立場から脱却し、市民を自らの食料安全保障を担う能動的な「共同生産者」へと変革する力を持つ。これは、食料生産への当事者意識を醸成する重要なムーブメントである。
これら多様な主体の力を結集した活動は、「流域自給圏」という大きな構想が、決して机上の空論ではなく、多くの人々が共感し、参加しうる現実的な目標であることを示す力強い証拠である。問題は、この草の根から湧き上がるエネルギーを、いかにして国家レベルの政策として結実させていくかである。
ユートピア幻想を超え、実行すべき未来への投資
「令和のコメ騒動」が突きつけた日本の食料危機という国難。これを乗り越えるための有効な処方箋として、「流域自給圏」構想は極めて説得力を持つ。それは食料の安定供給だけでなく、防災、環境保全、コミュニティの再生といった多面的な価値を同時に創出する、未来への投資である。
このビジョンを「ユートピア幻想だ」と冷笑する見方もあるかもしれない。しかし、真に無責任なのは、現状の明白に脆弱なシステムを維持し続けることである。「流域自給圏」は幻想ではない。それは国家のレジリエンスに対する、現実的かつ必要不可欠な投資なのだ。
その第一歩として、まずは首都圏でモデルケースを進め、その成功事例を他の都市圏へと広げていくべきだ。国家レベルの政策と、市民レベルの自発的な活動が連携したとき、この構想は現実のものとなる。
悲観論に終始するのではなく、行動を起こす時である。本稿が依拠した論考の締め括りの呼びかけが、我々の進むべき道を示唆している。自分が今いる場所で、できることをすぐに始めること。そこからこそ、「食」の未来への希望がきっと見出せるはずだ。

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