昨今、米価の高騰や物価対策として浮上した「おこめ券」を巡り、メディアでは様々な議論が交わされている。しかし、その多くは生産者と消費者、あるいは特定の組織を対立軸に据えた表面的なものであり、しばしば意図的に政策が歪められているかのような極論に陥りがちだ。こうした単純化された論争は、問題の本質を見えにくくし、建設的な解決策から私たちを遠ざけてしまう。
2025年12月11日付けの農業協同組合新聞で鈴木宣弘教授は次のとおり述べている。
元凶は財政制約である。流れは、「前政権→増産に舵→価格下落時の措置なし→現場不安→新政権→やはり予算出せない→生産絞るしかない」というものだ。
本稿の目的は、極論や誤解を排し、日本の食料・農業問題、とりわけ米政策の根幹にある構造的な課題を冷静に分析することにある。特定の「犯人」を探し出すのではなく、なぜ政策が一貫性を欠き、現場が混乱するのか、鈴木宣弘教授の記事を参考にしながら解き明かしていく。
流通する「犯人探し」の誤謬をただす
複雑な問題に直面した際、私たちはつい「誰が悪いのか」という単純な犯人探しに陥りがちだ。しかし、日本の米を巡る問題は、特定の個人や組織の意図だけで動いているわけではない。本質的な議論を進めるためには、まず巷で囁かれるいくつかの見当違いな批判を冷静に検証する必要がある。
論点1:「おこめ券は特定の組織への利益誘導である」という批判
物価高騰対策として議論される「おこめ券」について、「特定の組織への利益誘導が目的だ」という見方がある。しかし、これは本質を見誤った深読みである。
確かに、おこめ券は消費を喚起するため米価の上昇圧力となり得、物価を直接下げる対策とは言えない。だが、この政策が浮上した背景には明確な因果関係がある。政府が生産抑制によって米価を維持しようとする政策を進めた結果、「米価が下がらない」ことへの消費者の懸念が強まった。おこめ券は、この政策が生み出した不安に対処するための一時しのぎとして出てきた消費者支援策であり、特定の組織の利益を意図したものではない。
論点2:「流通業界が米価を不当に吊り上げている」という批判
「米の在庫は増えているのに価格が下がらないのは、流通業界が悪さをしているからだ」という声も聞かれる。これもまた因果関係を取り違えた見方だ。
実態は、流通業界も苦境に立たされている。2024年産米が市場に出回る前から消費され(先食い状態)、さらに25年産も不作になるとの懸念から集荷競争が激化。流通業者は高値で米を仕入れざるを得なかった。ところが蓋を開けてみれば25年産は予想以上の豊作となり、需給は緩和基調へと転じた。その結果、流通業者は「高値で仕入れた米を、赤字を出してまで安売りすることはでき
本質は「流通が悪者だから米不足になった」のではなく、「米不足を招いた政策が、結果として流通の混乱を引き起こした」という流れである。この本末転倒な理解を正さない限り、根本的な解決には至らない。
論点3:「農林族・農協・農水省の鉄のトライアングルが元凶だ」という批判
「農林族・農協・農水省からなる『鉄のトライアングル』が、自らの利益のために政策を歪めている」という批判は、長年にわたり繰り返されてきた。しかし、この見方はもはや時代錯誤だ。
もしこの強固なトライアングルが今も健在で、全てを意のままに操っているというのであれば、一つのシンプルな問いに答えられなければならない。なぜ米価は、この30年間で半値以下にまで下落したのか。 この単純な事実が、「鉄のトライアングル」論の分析的有効性がもはや失われていることを証明している。
繰り返される「財政制約」の壁
日本の米政策はなぜ、増産と減産(生産調整)の間を行き来し、一貫性を欠いてきたのか。その根本原因は、特定の組織の意向などではなく、極めてシンプルに「財政制約」という強固な壁の存在にある。近年の政策転換の経緯を振り返れば、その構造は一目瞭然だ。
1. 石破政権の挑戦 前政権(石破政権)は、従来の生産調整が限界に来ていることを認識し、生産量を農家自身の判断に委ねる「増産」へと舵を切った。
2. セーフティネットの欠如 しかし、増産に踏み切れば米価の下落は避けられない。そのため、価格が下落した際に農家の経営を守るセーフティネットの構築が検討された。ところが、「財政制約」を理由に、そのための予算は確保されなかった。
3. 新政権の断念 米価下落への不安が現場に広がる中、政権が交代。新政権には積極的な財政出動によるセーフティネット構築が期待されたが、やはり「財政制約」の壁は厚く、予算を確保することは困難だった。
4. 「元の木阿弥」への回帰 結局、予算をかけずに米価を維持する手段は、従来通りの「生産を絞り込む」減反政策しか残されていなかった。こうして政策は、振り出しに戻ってしまったのである。
政府は「コストダウンとスマート農業と輸出」といった掛け声を繰り返すが、これらは農業全体を支えるセーフティネットにはなり得ない。棚田に象徴される中山間地域が国土の4割を占める日本では、大規模農家だけでは水路や畔の管理といった農村インフラさえ維持できず、国民への食料供給は確保できない。また、「増産して輸出」という論も、日本米の輸出をどれだけ急拡大できるかという現実を無視した机上の空論に過ぎない。
この「財政制約」という根本問題が、生産者と消費者の間に深刻な分断を生み出している。
生産者と消費者の埋めがたい溝
財政的な手当てを欠いたままの政策運営は、生産者と消費者の利益を真っ向から対立させ、社会に深刻な分断をもたらしている。
あるテレビ番組が、生産者と消費者の双方に「適正な米価」について街頭インタビューを行った結果は、この断絶を象徴的に示している。
• 生産者の希望価格: 3,500円 / 5kg 程度
• 消費者の希望価格: 2,500円 / 5kg 程度
これは、生産コストと生活コストという二つの硬直的な制約に挟まれた、構造的な価格不一致である。生産者側は肥料や燃料などの生産コスト高騰に苦しみ、一方で消費者側はこの30年間で国民所得が150万円近くも減少し、生活に余裕がない。このような状況で、単に「双方の歩み寄りを目指すべきだ」と語るのは無責任に他ならない。双方の努力だけでは、この絶望的な分断を埋めることは不可能なのだ。
しかし、この構造的な対立を解消し、両者の利益を同時に満たすための明確な処方箋は、確かに存在する。
積極財政による「差額直接支払い」の導入
生産者と消費者の対立を乗り越え、双方に利益をもたらすための具体的な政策、それこそが積極財政を前提とした複合的なセーフティネットの導入である。その中核をなすのが、生産者と消費者の間に存在するギャップを政府が財政出動によって埋める「差額直接支払い」制度だ。
この制度は、単なる思いつきではない。『日本農業新聞』の読者アンケートでも最も支持を集めるなど、生産現場から強く求められている現実的な解決策である。
• 制度の概要:差額直接支払いと政府備蓄の連携 生産者のコストに見合う基準価格を設定し、市場価格がそれを下回った場合に、その差額を政府が農家に直接補填する。これに、備蓄を含む政府在庫の買入・放出ルールを明確化した運用を組み合わせることで、需給と価格の双方を安定させる。
• 生産者へのメリット コスト割れが回避される補償基準が示されることで、農家は価格下落を恐れることなく安心して経営計画を立て、増産にも積極的に取り組むことができる。
• 消費者へのメリット 増産により市場での取引価格は需給に応じて低く抑えられるため、消費者は安く米を購入することができる。
• 財源について 現在、物価対策として検討されている4,000億円規模のお米券予算を、この直接支払い制度の財源に振り向ける方が、はるかに根本的で効果的な解決策となる。
この政策こそが、政府が市場「価格に関与しない」という建前を維持しつつ、実質的に農家と消費者の双方を守り、食料の安定供給を実現する真のセーフティネットとなり得るのだ。
「農業にこそ積極財政」という未来への投資
これまでの議論を総括すると、日本の米を巡る問題の根源は、流通業者や農協といった特定の悪役の存在ではなく、農業への公的支出をためらう「財政制約」という構造的な病巣にあることが明らかである。
この制約が政策の迷走と現場の混乱を招き、ついには生産者と消費者の間に深刻な分断を生み出してしまった。この分断を乗り越え、国民への食料の安定供給という国家の根幹を確保するためには、「差額直接支払い」と安定的な政府備蓄を組み合わせた、確固たるセーフティネットの構築が不可欠だ。
それは、単なる農業保護ではない。国民の食卓を守り、国土を保全し、食料安全保障を確立するための未来への投資である。今こそ、私たちは分析に基づき、政策転換を強く要求しなければならない。
「農業にこそ積極財政だ」。
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